私とスカウティング
1908年1月24日(明治41年)
英国のバークンヘッドにおいてボーイスカウトは創立式をあげた。創始者は南阿戦役の英雄、陸軍中将ロバート・ベーデン・パウエル(1857~1941)目的は英国の次代の少年をたたきなおして、大英帝国の危機を救うにあった。そのため軍事訓練だという批判もあったが、教育界は新教育だと見た。それは感覚訓練を土台とし自発自啓、観察力と推理力を通しての人間形成で、大自然の中に教育の場を見出したルソーの教育思潮の20世紀版的展開だと見られたからである。
1908年6月19日(明治41年)
広島商業師範学校長北条時敬先生が万国道徳会議日本代表として渡英の際、文部大臣牧野伸顕氏は、ボーイスカウトを研究してくるよう北条氏に委嘱した。
1909年9月
北条校長は、ボーイスカウトに関する出版物、用具、服装その他を持って帰朝。報告したが文部大臣がかわっていて政府はその報告を受けとらなかった(その内閣の逓信大臣に後藤新平氏がいたのだが、そのことを知らなかった)北条校長は広島において10月17日、将来品を展示した。付属中学校だった私はそれを見た。この将来品は後年、鹿児島市が譲り受けたが空襲のため焼失した。ただ1910年版の“Scouting for Boys”だけは北条氏が日本青年館に寄贈したため残っている。
付属中学校は1907年4月、日本最初の校外生活指導のため通学区域を元として14組の町組を作り生徒の動静、風紀を取締まった。
1909年4月、町組を校外団と改め生徒の自治にまかせ、東西中南北、第一、第二寄宿舎の7団とした。その内、北部校外団は「城東団」と称し、北条校長の示唆により班別制度をとってボーイスカウトのやり方を採用した。
団員数は5年生9、4年生5、3年生3、2年生5、1年生8、合計30人、5年渡辺寛(現存、医博)が団長。私は4年生で班長だった。「城東団歌」は私の作詞。
北条校長は1913年、東北帝大総長(初代)に1917年、学習院長になられたが広島、愛媛、宮城県の教員たちにボーイスカウトについて数回講演された。(西田幾多郎博士編「廓堂片影」に講演の要旨が集録してある)
1923年(大正12年)
私は大阪府立高津中学の歴史科教員となったが、生徒の希望によって校友会にスカウト部を作り、その団長となって1939年(昭和14年)まで在任した。
その校長三沢先生は、私の母校広島高師教授、兼付属中学の主事だった。時に東の伊藤(長七、東京五中校長)西の三沢とうたわれた自由教育の双璧であった。しかも三沢先生は米国留学中、ボーイスカウトの隊長を経験されていたので、全国唯一、公立中学校ボーイスカウトとして私を激励された。
1939年(昭和14年)
私は日本連盟の職員となり、その後大戦のため大日本青少年団に吸収統合されたが、戦後元に復し今日に至る。
中村 知 なかむら さとる
筆名 東野通義 とうの つうぎ
愛称 ちーやん
1893年2月21日
愛媛県松山市に生まれる。(父は福島県人、陸軍士官、母は広島県人)
1906~1911年
広島高等師範学校(現広島大学)付属中学校在学中、1907年英国に起こったボーイスカウトにつき校長北条時敬先生の視察談を聞き感動し、生徒同志30人と「城東団」を結成し、班長となる。時に1909年11月。この団は1930年まで続いた。
1917年3月
東洋協会植民専門学校(現拓殖大学)、朝鮮語科卒業。朝鮮研究を志し南鮮の農山村に生活。(1919年9月京大入学まで)
1922年3月
京都帝大文学部史学科東洋史(特に朝鮮史)選科修了。開講された大阪外語に在職1年、学界に見切りをつける。(眼疾のため)
1923年3月~1939年9月
大阪府立高津中学校(現高津高校)歴史科教諭。在職17年中、名校長三沢糾先生の提唱によるクラブ活動の一環として「スカウト部」を創設、公立中学校唯一のボーイスカウト隊誕生し、1924~1939年その隊長となる。
その間1929年ボーイスカウト第3回世界ジャンボリー日本派遣団員に選ばれ英国に出向き、かねてギルウェルパークの国際指導者訓練コース2種類を修了。
1939年9月
少年団日本連盟(現ボーイスカウト日本連盟)教務部長となり指導者養成を担当。
1941年1月
青少年団体統合により大日本青少年団に吸収され少年部課長、錬成局少年部長となり終戦に至る。
1946年
ボーイスカウト再建のため同志と運動。
1949年6月
新設の広島市立児童図書館長となる。
1950年11月
ボーイスカウト日本連盟那須野営場開設により野営場長となる。
1955年11月
ボーイスカウト日本連盟事務局奉仕部長となる。
1964年4月
ボーイスカウト日本連盟嘱託となり、現在に至る。翻訳書5種刊行。
1966年11月
永年にわたり社会教育に従事した功績により勲五等瑞宝章を受く。



