ちーやん夜話集 12.奉仕とは

奉仕とは

 「うちの団でローバー隊を作る計画があるのですが、肝心のローバーたちが、まだ迷っています。」という。「なぜ迷っているのか?」と問うたら、「ローバーは、地区や県連の行事に奉仕せねばならんでしょう。そうなると自分のことが出来なくなる。損するみたいだ、と思うらしい。」という答えであった。

 私は、「せねばならんとは、どういうことですか? 強制されるのですか? 奉仕をしないと工合いが悪いから、やむを得ずする、という受け身的な考え方なのですか? やらされるというような奴隷的使役なのですか? 自発活動での奉仕じゃないのですか?」と、連発式の詰問をした。相手は沈黙した。
 私はさらに追い討ちをかけた。「奉仕は力だめしですよ。自分がどれくらいお役に立つだろうか、という力をためすのですよ。だから損にはならない。」と、たたみかけた。すると相手は、「ははァ…力だめしねェ…と、感心したような、びっくりしたような、かつ、半信半疑のような顔をみせ、せきばらいを一つして、急に話題を変えてしまった。

 私は、この日以来、「奉仕とは何ぞや?」という課題ととっくんだ。スカウティングにおいて、究極の行動である「奉仕」ということについて、ひとつも研究していなかった自分に気がついたからである。研究していないくせに、口では奉仕々々と、よく云う。こいつはいかんぞ、と自分を叱った。
 以上が序論である。

 さてここで、「奉仕」という言葉について考えてみよう。奉仕とは、「つかえたてまつる」という和訓で、何につかえるか、と、いうと、神につかえる、と、いうことから来ているようである。あるいは、これは、神道の教義にとらわれている解釈かも知れないが、神に限らず仏に対してもいえるであろう。即ち、至上なものに仕える――ことがその極限であろう。国に対する奉仕におよび、外国では、National Serviceといえば兵役のことになる。
 大正年間以来、日本では、「社会」という意識がもりあがってきて、社会奉仕という言葉が流行するようになった。それが昭和のはじめ頃、商業主義の盛行によって、サービスという言葉が、百貨店の用語のようになった。たとえば、大阪の大丸あたりが、そのキャッチフレーズの元祖ではなかろうか? 当時、大阪では、「ほしいしゃかい」するのだ――と「社会奉仕」をひやかした者があったことを私はおぼえている。これは、なんらかの反対給付や、儲けや、謝礼を予期したもので、結局、取引であり商売だった。これは、奉仕を看板にし、奉仕を売り物にした商魂でしかあるまい。
昭和も15年頃になると、奉仕という言葉では、もうききめがなくなった。それほど、この言葉は新鮮味を失い、無力となった。そこで、これにかわる言葉として「滅私奉公」という言葉が作られた。奉公と奉仕と同義語で、それに滅私という冠詞がくっついて、人心をとらえたものである。
 日本人は、こういう言葉の魔術にかかりやすい国民だといわれる。奉公とは、公、すなわち、朝廷に奉るということ、この公が、後に主人公の公になり、主人につかえることとなり、奉公人という言葉が生まれた。雇傭人である。武士仲間では、主君に奉公すると云った。公はオオヤケであり、主家のことである。後にオオヤケは、公衆とか、社会大衆を意味するようになった。公共のことである。

 スカウティングにおける奉仕の意義を考えてみよう。
 スカウティング・フォア・ボーイズの巻頭に、いわゆるスカウティングの四本柱とでもいうべきものが載っている。それは、人格、健康、技能(手技)と奉仕の四つである。この四つの、どれか一つが欠けても、スカウティングは成り立たない、と、いうように思われるのである。そして、その最終段階に、この奉仕があげられているのである。われわれのスカウト教育は公民教育だといわれる。公民生活とは結局は奉仕生活なのだから、これは当然である。
 よって、スカウティングのあらゆる指向は、この「奉仕」に帰納されなければならないであろう。
 いま、このことを、次の帰納によって立証してみようと思う。

 日々の善行――これは奉仕訓練の根本であり、積みかさねであって、方法的であり、かつ目的的である。これを忘れては奉仕はあり得ないといえよう。
 そなえよつねに――これも奉仕を狙っての心がまえ、そして奉仕技能の準備である。何に一体そなえるのであるか? それは云うまでもなく、奉仕のチャンスを探し求め、チャンスを発見するや、まってましたとばかり奉仕を敢行する準備を完了することである。
 「準備ずみ」であらねばならぬ。
 日々の善行といい、そなえよつねにといい、どちらも自発活動がその生命であって、しなければならぬからするのではない。他から命ぜられてするものでもない。奉仕したら損をするとか、トクをするとかいう境地を超えた純粋行動である。
 こういう行動が無条件にいつでも出来る人間になるように幼い時分から練習する。その練習期にあっては方法的に或る条件を与えて条件反射をくりかえす必要があろうけれども、その積みかさねが、いつしか習性となって無条件反射的に出来るようになる。そういう人間にすることがスカウティングである。観察推理訓練の目的も、また、ここにあるのである。

 ちかいの第2――いつも他の人々を援けます――も、おきて第3――スカウトは人の力になる――も、奉仕の徳目である。さらに誠実、忠節、友誼、親切、従順、快活、質素、勇敢、純潔、敬虔のそれぞれは、いずれも、人につかえる道である。スマートネスもまた、人に悪感を与えないというモラルである。
 まじめにしっかりやり、互いにたすけあい、自分のことは自分でする。おさない者をいたわり、そして進んでよい事をする――というカブスカウトのさだめも、みな、人への奉仕を意味する。
 これら、人への奉仕は、いいかえれば、自分への奉仕――自己研修――ではないか!
 B-Pは、自己研修という言葉をあまりつかわない。「自分への奉仕」と云っていたことは注目に値する。自己研修という言葉は、東洋的、日本的な表現であろうが、何となく個人主義的、利己的、打算的な感がする。これについては、後述したい。

 さて奉仕活動を発動するにあたって、その奉仕分野は、いろいろ考えられる。
 まず自分の属する班や組の者に対する奉仕、それから次長や班長、組長、デンチーフ、デンマザー、デンダットへの奉仕、上級班長や隊付や副長補に対する奉仕、副長、隊長に対する奉仕、団委員、団委員長に対する奉仕、それに、集団としての組、班、隊、団、地区、県連、日連への奉仕、世界のスカウト圏への奉仕、ひっくるめてスカウティング運動への奉仕がある。
 これ以外に家庭、隣保、地域、職域、学域、公共社会、国、国際世界への奉仕もある。
 また災害救助や犯罪防止や防火、植樹、自然愛護、環境衛生、交通安全、助けあい運動、募金などへの奉仕もある。場合によっては軍役奉仕もあり得よう。宗教奉仕も考えられる。
考えてみれば、日々の生活は、一刻といえども奉仕ならざるはなし、どれかの奉仕に直面している、といえる。
 ここで問題をしぼって、先に述べた自己研修と奉仕について、もう一度考えてみたい。
 あるローバーたちは、前述のごとく、奉仕に引き出されるならば自己研修が出来なくなるという。そして損だと考える。私は、この段階の人たちに、次のような図を示したい。

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        *    自    *         *    奉    *
       *     己     *       *           *
       *     研     *       *           *
        *    修    *         *    仕    *
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このように、彼らは、ふたつに分けて考えているらしい。ところが、私は、こう考えている。

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              *     *  *     *
            *    自   **   奉    *
           *     己  *  *        *
           *     研  *  *        *
            *    修   **   仕    *
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その理由は、奉仕することによって自己研修が深まり、自己研修によって、奉仕もまた進歩するからである。そして二つの円のかさなっている部分は、自己研修すなわち奉仕であり、奉仕即自己研修であって、どちらか片っ方だけでない、と思うのである。
 B-Pが、最後のメッセージに述べたところの、真の幸福というものが、丁度この部分にあたるように私は思う。すなわち他人の幸福をはかることによって自分の幸福を得る、という思想である。東洋思想では、これを、「徳」と云う。「徳を養います」――とは正に、これをさしている。私は、こういう奉仕が、本当の奉仕だと思うのである。
 滅私奉公のような、自分をギセイにする奉仕――は、まかりまちがうと、とんでもない奉仕になりそうだ。なぜか? これは売名的になったり、人権を無視した強制になりがちだからである。奉仕によって自己も活かされねばならない。自己を殺したのでは、それは奉仕ではなくて、虐殺である。自殺を美化したものにすぎない。いいかえれば、義侠心を満足させるだけのための奉仕であるならば、それは自己満足は出来るだろうが、人は迷惑せんとも限らない。報償をアテにした打算的な、交換条件的な奉仕は、胸糞がわるくなる。名誉心にかられた奉仕も、ずいぶん世の中にはあるものだ。

 結局、「善」とは何か? という課題と同じようなことになってきた。「奉仕とは何か???」
 これは純粋無垢の善や、無条件の奉仕をした人だけが答えられるもので、そのようなことを、まだ、したことのない私には、いくら頭をひねっても答えられないのは、甚だ残念である。
 私は、ひとの答案をひっぱり出して、ご覧にいれるほかはない。
 中国の古哲人、老子は――善行無轍跡(ゼンコウ、テツセキ、ナシ)と答えた。善行の純粋なものは、車の通ったあと、ワダチ(轍)のあと(せき)がひとつも残らない。輪跡がない、というのである。ひとに見せびらかそうにも何もない。まことに空気のような善行だ。

 印度の聖雄とうたわれたガンジーは、「真の善行は、純潔な者だけが、なし得る」と答えた。「善行をひとつ、してやろう」などと考えてから善行するような作為の人間は、もうすでに不純だ、というのである。いわんや善行したら、ほめてくれるだろう、などと、報酬を予期するような善行は、不純だから善行ではない、と、いうのである。

 ここで私は、「スカウトは純潔である」という、おきて第11を思い出して、冷や汗が出た。
 英国のおきて第10にこれがある。英国のおきて(Law)は、最初9ヶ条だった。ところが、みんなが、もう一つふやして第10に「純潔」を入れてほしいと、B-Pにおねがいしたところ、B-Pは最初は反対した。その理由は、おきての第1から第9までをひっくるめてぶつかっても、「純潔」には勝てない。それほど純潔という徳目は比重が大きいのだ。もし、これを第10に加えるならば、純潔の比重は10分の1にしかならない。とんでもないことだ、というのであった。B-Pのこの説明は、大いに味わうべきもので、おそらく、ガンジーの言葉と相通ずるものがあるであろう。とにかく純潔は、10分の1ではないぞということを土台として、結局、おきての第10に加えたそうである。(レイノルズ著、“Boy Scout Movement”による。)

 実行した人の言葉には、力があるものだ。B-Pの云う「自分への奉仕」という言葉を味わいたい。

(昭和36年3月6日 記)


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