ちーやん夜話集 20.私見:ちかいの意義

私見:ちかいの意義

 英国ではプロミス、米国ではプロミスまたはオース(Oath)という。プロミスは「やくそく」であり、オースは「ちかい」と訳すべきだろう。
 日本では「ちかい」と名づける。曲解を試みるならば、「やくそく」では弱くて、これを破るおそれがあるから「ちかい」という少々固い名称にしたのかもしれない。カブの方は逆に「ちかい」では固苦しいというので、「やくそく」の方をとったというようにきいている。
 「ちかい」は正しくは「ちかひ」と書くべきだろう。「ひ」とは「霊」(たましい――本当は、たましひ――)を意味する日本の古語である。「たましひ」「霊」にちかうので「ちかひ」という。これは「日本書紀」あたりによく出てくる「うけひ」という古語に関係がある言葉で、共に「ひ」に向かってベストをつくす人間の決意をいみしている。

 こんなことをいうと、一層固苦しくなるかもしれないが、日本人の心理には「天地神明に誓う」とか、「天神地祇を祀って誓う」とか唱えて「神」「仏」に所信をちかうことが昔からある。そこでスカウトのちかいは、一体、誰に対してちかうのか? という大きな疑問にぶつかることになる。

 昔の武士は神仏に誓った。それは人間同士は所詮、順逆常ならず、信用できない、ということ、また人間には栄枯、盛衰、生老病死があってたよりないので「絶対」のもの、即ち「神仏」や「天地神明」にちかったと考えられる。
 明治以来の兵隊は、「大元帥」即ち軍服を着た「天皇」にちかった。それは、軍人としての天皇は兵馬の権、即ち「統帥権」をもっており、皇軍の首長であったからである。「軍旗」は大元帥の身代わりのハタだとされた。
 スカウトは、武士や兵隊とはちがった人間である。だから神仏にちかったり、隊旗(これは軍旗とは全然性格がちがう)に誓ったりするのは、第一義的でない。
 スカウトは、それなら「何に」「誰に」ちかうべきなのか?

 私は、何よりもまず「自分」にちかうべきだと思う。「ひと」をあざむくことはできても、自分をあざむくことはできない。もし、平気で自分をいつわるような、そんな芸当が出来るならば、私は彼を「スカウト」と思いたくない。理由は? 簡単。彼は「名誉」をもたないからである。
 「名誉」についての私見は、前に述べた。
 「自分に敗ける」ことはあっても「自分をあざむく」ことがあってはならぬ。(“自分に克つ”の稿参照)平気で自分をあざむく者は、ヒトも平気であざむく。そうなると誰も、彼を信頼しない。だからスカウトではもうなくなっている。
 自分が自分にちかう――これにまさる自発活動があるだろうか!

 「この三ヶ条の「ちかい」は、ベーデン・パウエルが作った――いや、これは日本連盟がきめた――そういうふうに、ちかわないとスカウトになれないから、ぼくは、ちかうのです…。」
 私は、こういう考え方をケイベツしたい。この考え方には、一つも「自分が主人公になった態度」がない。自発的なものがない。ドレイ的であり、被害者的であり、盲従的であり、封建的であるから――。
 自分から進んで、B-Pに共鳴しスカウト仲間にとびこんだ、という精神がひとつもない。そんな他律的な者にスカウティングは生まれて来ない。

 これはスカウト仲間への「仲間入り」の約束の言葉でもあるから、第二義的には――スカウト仲間に対してちかうのである。または隊長だとか、隊旗に対してちかう――ということも、まちがいではないが、第一義的には、「自分が自分にちかう」。昨日まではスカウトでなかった自分が、本日、只今、この言葉とともにスカウトになるのだ――というモチベーション(動機づけ)を意味する。仏教で、俗人から僧になるときに「得度」(とくど)の式をするが、私はそれに似たものを感じる。またはキリスト教の洗礼――いいかえれば、一生の一転機である。

 カブの場合は、仲間にやくそくを結び、その制約が自分にもどってきて、自分を律する、という反射的効果をとり、スカウトの場合は、自分の在り方をさきにして自ら律し、そのはたらき(機能)を仲間(ヒト)におよぼすという、積極性をとる――年令、知能、体力、精神力の発達にマッチしたやり方になっていると私は考える。

(昭和35年2月6日 記)


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