ちーやん夜話集 63.神仏の問題

神仏の問題

 ――これはある県の出来事である――
 ある年少隊がピクニックに行った。そしてM神宮の森を通った。初夏の緑と多分な酸素の吸入によって子供たちは新鮮な活動力を得て帰った。ところが、予期しなかった抗議が、カブの親から出された。それは――
 「カブの訓育では、神社に参拝することを教えないのですか?」という質問であった。これは質問というよりか、むしろ抗議に近かった。
 その隊長は、これに対して、どう答えたか、私は、知らない。

 数日後、その地区のラウンドテーブルがあった。その年少部会の席上、このことをテーマとして討議したそうである。察するに、その隊長が、そういうテーマを出したものと思われる。
 その討議は結局、何の結論も出なかった由である。もっとも討議というものは結論を出さねばならぬものではない。と聞いているので、それを云々するつもりはない。ただ、二、三のリーダーが、神や仏をおがむのは封建時代の遺風だとか、スカウティングでは、そんなことは問題にしない、などという言葉を吐いたそうである。これは、だまって居られない大問題である。同時に、その席にいたコミッショナーが、それに対して、適切なボエンも喰らわさないで見のがした、というに至っては、私は、コミッショナーの資格を疑わざるを得ない。

 その後これは、県全体のコミッショナー会議の席上でも話題に出た由であるが、この件に非常な関心をもって意見を吐いた者は極めて少数で、大部分の者は「無関心」にすぎ去り、県コミも適切なリードをしなかったと聞く。一体全体、そんなことでスカウティングは成り立つものか、どうか?
 父兄の方にも、私は、誤りがあると思う。昔は、神社というものは、国家組織の一部であったが、今は国家構造からはなれて、宗教の一つとなり、神社神道というものになった。だからこれを信仰するか、しないかは、個人の自由になっている。であるから、神社をおがむことも個人の自由である。しかし、社前を通るとき、ちょっと頭を下げて会釈する位のことはエチケットである。という考え方はあり得る。その隊長は、それさえやらなかったのかも知れない。

 スカウトの「ちかい」には、神または仏にまことをつくす――という言葉がある。まことをつくす――という言葉には、定まった程度はない。その人個人々々によって浅い深いがある。年令により、理解の仕方により、信仰度により、千差万別であるはず、けれども少なくとも、無礼に失したり、これを無視することは許されない。従って無神論者は必然的にスカウトたる資格を欠く外はない。

 今一つ――規約第14条は、スカウトの一人々々が、明確なる信仰をもつようスカウト運動はこれを奨励する、と謳っている。だから、もしカブの中のだれかが、神社の神を信仰するのであれば、隊長は、神社をおがむよう励ますことが隊長としての義務である。
 もっとも、カブの「やくそく」にも「さだめ」にも、神とか仏とかいう文字、言葉は一つも出ていない。出ていないから「無関心」であってよい、とはいわさぬ。この点、今度の進歩制度の改正委員会の年少部会でも大きな問題となった。結局「しつけ」の面でこの訓育を前より一層強化することにしたのである。

 英国も米国も、カブのやくそく、さだめのどちらかの中に、ハッキリGodという言葉が出されている。ある人がベーデン・パウエル卿に、そんな年少者に、神がわかるか? と反問した。するとB-Pは、わからなかったら教えるべきである――それが教育だ――と、キッパリ答えたという。

 県コミや、地区コミは「行事コミ」にとどまってはならない。「教育コミ」になって貰わないと、コミッショナー制度のイミはない。

(昭和34年11月16日 記)


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