信義について
1950年(昭和25年)6月30日、ボーイスカウト日本連盟は、世界各国のスカウトから、一つの異議なく国際復帰を認められ、英京ロンドンにあるボーイスカウト国際事務局から、それを確認するという喜ばしい電報が、7月4日到着したことは、私どもの誠にうれしいニュースである。
私が6月20日、広島を出発して中央実修所の開設地山中に向かう途中、各地の同志から、6月30日の夜記念の営火をする予定だというようなプログラムが各地で語られた。中央実修所を、その前日たる6月29日に修了し、私どもは、翌30日山中を出発帰路についたのであったが、正にこれは新しいスタートへの朝というべきであろう。三島先生始め本部の皆さまは、ロンドンからの確報の来るまでは――という慎重な考慮から、特別の行事的発言を差し控えられたようであった。ただ私は例のベートーベン第9シンフォニーの訳曲「歓喜によする歌」の歌詞を作りかえて、「1950年6月30日」という作詞を試みて、尾崎さんたちと控室で試唱してみただけであった。これが東京新聞7月2日の三面トップの記事にとりあげられ、私の作歌を合唱して祝った、と記されたのには少々恐れ入る。
広島に帰ってから、或る人達に何か記念的の集まりをしたか? と尋ねたが、どこの隊も別にやらなかったようである。確報がないのにあまり先走ってやるのもどうだろう――という慎重さがあると見れば、それもそうだと肯ける。ところがある隊の上級班長が私に問う言葉に「もし行事をするとしたら、どんなことをしたらよいでしょうか?」という一言があった。ただ国際復帰という事をお祝いする会合をするんだよ――と私は口さきまで出かかったのを――どっこいまてよ――と押さえた。そして私は「その質問は大変よろしい。少し考えてみよう」と答えて、その日は別れた。その後二、三の指導者に会った。その人たちは戦後派とでもいうのか、戦後この運動に飛び込んだ人達であった。それらの人達に「いよいよ日本のBSの国際復帰が叶ってうれしいですね。オリンピックに先立っての復帰ですからね。」と話しかけたのであったが、それ等の人々は「そうですね」と答えはしたものの、今一つピンと来ないものがあった。
それで私は何か物足りなさを感ずるとともに、それらの人々の答えがピンと来ないわけを考えて見た。そして、私は彼等が戦前の日本BSについて殆ど知らないこと、かつ、日本BSが大戦突入のまぎわまで、BSの国際信義を立て貫いたこと、その信義を買われたればこそ、世界72カ国のBS連盟が満場一致、今度の復帰を認めてくれた事――などについての認識欠如のせいだということを知った。
このことを新しい指導者達に教えることが、私ども古参者の義務であること、そして記念の行事集会は、このことを全日本BS隊員に周知せしめ、信義というものが如何に貴いものか、その信義を行なう者こそ、本当のスカウトであるということ。そして、真の平和というものは、かかる信義の上にのみ成り立つものだということを知らしめてこそ、この行事、集会は始めて意義があるのだ――と、私はさとったのである。
7月2日附東京新聞の記事は「日章旗、少年団国際大会に翻る」という白ぬきの大きな見出しをつけ、六段ぬき23行の1枠内に組まれている。今だに少年団なんて書いている記者の頭は、ちょっと笑いものだが、記事はワシントン発30日坂井本社特派員発――というもので、30日午後、ペンシルバニア州ヴァエーフォージで開催中のアメリカジャンボリー、トルーマン大統領がわざわざ出かけて、隊員達に演説したこと、同夜1泊の上、1日ヨットで帰京したこと、この大会に戦後始めて日章旗が、他の国旗とともに掲げられたのである。多分、関さんや今井さん始め在米日系BSが参加したのだと思われる。
次に「復帰の念願かなう」というタイトルがあり、「ボーイスカウト日本連盟」と傍注があり、記事は昭和16年1月、大日本少年団連盟の強制的解散により、国際連盟からも脱退したこと、(注、国際連盟ではなく国際事務局と書くべきだ――そして脱退したのではなく、解散による自然脱退と書くべきで、ここのところが非常に大事なのである――筆者注)昭和21年秋、日本BS復興について、去る6月19日勲三等に叙せられた、ラッセル・ダーギン氏の尽力のこと、23年3月23日最初の東京ラリーのこと、同年5月17日フラナガン神父を囲むラリーのこと、24年1月2日、GHQの正式認可、同2月11日附、財団法人ボーイスカウト日本連盟発足のことを記し、本年5月上旬、ロンドンのボーイスカウト国際連盟(正しくは国際事務局)から6月30日まで各国のボーイスカウト連盟(ソ連圏諸国を除き加盟国で2カ国)より異議がない場合には、正式に国際復帰を許可する旨の便りが来たこと、その結果30日迄異議状が来なかったばかりでなく、最感情的に険悪と思われたフィリピンBSが、6月4日来日し、和気あいあいのジャンボリーを行なったことなどを記し、8月18日からの全国大会のこと、明年の墺地利での世界ジャンボリーに出席出来ること、今度の山中の第1回中央実修所のこと、中村知の復帰の歌作歌合唱のことを附記し、三島理事長談として、復帰確実という見通し、大日本少年団時代の国際的信義が買われて、案外早く復帰出来たものと思う――云々と結ばれてある。
以上の記事中、私が注記したように、日本BSは、自主的に一度も国際事務局に脱退状を出した事実はない。前理事長二荒先生は、当局の弾圧に毅然として対抗し、解散直前まで国際負担金をロンドンに発送されたことは、当時連盟本部に職を奉じていた私達の確証するところである。
昭和16年1月16日、大日本青少年団の発生によって、大日本少年団連盟は解散を命ぜられたが、二荒先生は将来必ず復帰の日の来ることを信じ、旧日連の資産を大日本青年団に譲渡することを拒否し、財団法人健志会を新設して一切をこれに帰属された。当時大日本青年団側からは、随分ひどく罵られ、私どもは敢然これに対応した。そこらの事情をご存知ない戦後の指導者諸君には、特にご認識願いたい。二荒理事長以下、当時の同志が、いかに国際信義を固持して来たかということを。そのことは同時にBSというものへの信義でもあることを!
健志会の建物は戦災で焼けたが、その法人が残っていたばかりに、再建日本BSは名義を切り替えてこれを相続できたのであって、再建日本ボーイスカウトは実にこの信義の上に、ただ一つの生命を託しているのである。
戦後国民のモラルが低下し、BSを名のる者の中にも、信義の何たるかを解せず、自らこれを棄てて平気な輩も少々出現したけれども、信義をすて、これを失うた瞬間から、彼はボーイスカウトではないのだ――ということを改めて認識されたい。「スカウトは誠実である」というおきて第1は、このことを指している。義理なんていう徳目は、封建的なものだと考える人もあろうが、義の新しいセンスは別に存在する。このことについては、他日また筆をとろう。
全日本の他の諸会が、仮に全部信義というものを枷棄したとしても、われわれBSのみはこれを失うまいぞ!
国際復帰のよろこびは、これを焦点として、始めて光る。
(昭和25年7月9日 記)



