ちーやん夜話集 69.「勝」と「克」(2)

「勝」と「克」(2)

 大戦たけなわの頃、私は錬成所の仕事のため千葉県北の田舎道を陸軍大佐と歩いていた。話は「戦陣訓」が中心だった。それは「軍人勅諭」の補足みたいなものとしてその頃制定された。その冒頭に「必勝の信念」という一章がある。私は、なぜ必克の信念としなかったのか、と大佐殿に反問した。大佐は必克なんていう言葉はない。という。なかったら作ればよい、と私は言う。そして、私は同じ「カツ」でも勝は相対的の勝、克の方は絶対的のカチで、オノレに克つことだ。と主張した。大佐は、にがい顔をして、それは君の屁理屈だ、という。

 その晩、錬成道場で私は、神武天皇御東征の講話をした。大佐殿は傍聴していた。神武天皇が河内の孔舎衛坂(クサエザカ)で賊軍ナガスネヒコとの一戦にやぶれ、大阪湾を経て紀州に迂回して北上、大和に出撃した。その途中、兄のイツセノミコトは陣歿する。それまでに日向の国を出発以来次々と兄を失って神武は主将になってしまった。この迂回作戦も苦戦で全軍敗退の一歩手前まで来た。もう投げようかと思った神武は、ミブのカワカミという吉野川の支流の河原に天神地祇をまつり撤宵、独り静かに凝念(ぎょうねん)した。暁の日の光がさす頃、忽然として新しいインスピレーションを感じた。そして「われ必ず克たん」と叫んだ。(これをウケヒという。一種のチカイである)これは精神的に大きな境地をひらいた叫びである。
 以後の戦は全く別人のように連戦連勝、ついに東征の業を達成し、人皇第一代の天皇と仰がれて、カシハラにおいて即位した。これは日本書紀巻三・神武紀に出ている。この叙述に、日本書紀の作者は「必ず克たん」と記している。「勝」の字を使っていない。多くの人々には、勝でも克でもどっちでも同じだ、というくらいに特別な関心はないようだが、私は、もし、勝の字だったら神武は、またどこかで、自分より強い者に敗けたろうと思う。「本当のカチはオノレがオノレにカツ、即ち克つでなければならぬ――」という話をした。

 大佐は、その時は黙っていたが、次の朝の朝礼の時、日本は強い、日清、日露の大戦に勝ち、有史以来外夷に敗けたことはない――と訓話した。
 大佐は昔、天智天皇の軍が朝鮮に出陣し百済(クダラ)と連合して、相手の唐、新羅(シラギ)連合軍と白江村で戦って全滅してしまい、結果として百済は亡国となり、次いで高句麗(コウクリ)も亡んで新羅が半島を統一する。日本は、上古以来の国策だった朝鮮半島に対する政策を抛棄せざるを得なくなったという歴史を、一向ご存じないのである。日本が清国や露国の大国と戦って勝ったのは、日本軍97%~98%の兵に教育が行き届き、相手の兵は、逆に97~98%無学で、文字さえ知らぬという、ケダモノどもだったことが大きな原因であり、相手が弱すぎたから日本が勝ったまでのことで、それを日本は強い、とウヌボレたところに「勝者の悲哀」があるはずだった。
 これは第二次世界大戦で完全に証明されたではないか。
 横綱栃錦が、今や引退とまで噂された不調を克服して、春場所優勝したあの心境への展開経路にも「オノレに克つ」段階であったことと思う。勝てばおごって驕慢となり、修行を懈怠し、敗ければ、ヤブレ(弊れ)カブレに卑下しクサリ、劣等感をもつ。驕慢の時は自分の限界を忘れて、ノリを越えてまで人を支配したがる。これすべて、自己を失った、自己のペースを失って、ナニモノかの幻影のペースに引きずり込まれた様相である。相対世界に、アクセクとして、損じゃ、トクじゃ、よろこびじゃ悲しみじゃ、とか、オレのカオをつぶしたの、オレをどうしてくれるだの、はずかしいだの、ミットモないだの――一体、ナニをモトとして生きているのだろうか?
 これすべて「奴れい」の一種でしかない。相対世界に沈滞しているあいだはナヤミはつきぬ。

 こう思いつつ、私は日々オノレに克ちたい。克とう、と努めている。そのためには、スカウティングが、私にとって一番、絶対道を示してくれるから、やめるわけには行かない。
 もし、スカウトの世界にも相対的優劣を争うものがいるならば、それは原理につかずして、方法にこだわる段階のクライに生き甲斐を感じているとしか思えない。

(昭和34年4月24日 記)


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