昭和47年4月18日 はんなん17号
主治医としての思い出 高山 芳雄
最後のご様子
昭和47年3月1日早朝7時30分、居間の電話が鳴り響いた。中村先生の奥様からである。先生が吐かれたとのこと。・「予感がする。往診鞄を受けとるや走った。走った。看護婦も走った。
部屋にかけ上がってみると、やっぱりそうだ。白ろうのようなお顔、夢中で注射、「お父さん、お父さん、苦しいですか」との奥様の叫びに、言葉にならぬ声で応えられた気がする。
また注射、急いで手を先生のお腹にあててみると、いつもの脈うつ大動脈瘤が触れない。破裂だ、万事休す。心臓の博動も停止した。
「奥様、ご最後です。残念です」
ちょうど午前7時40分でした。奥様、令息勝宣君は涙と共に合唱しながら、ガックリと肩をおとされた。
仰げば頭側に接する書棚、その手前隣のの仏壇、先祖のご位牌、御両親の写真、向こう隣に、B-P卿の写真、どうか先生を温かく向かえてあげてください。と手をあわせて、おねがいした。
医師に対する信頼
昭和34年9月、先生の眼底出血、動脈硬化症の治療を依頼され、私の胎盤療法をお受けになった。ちーやん夜話集83頁に、智・仁・勇の題のもとに、当時のことを書いておられる。
以来満13年間、私は主治医として先生にお仕えした。
顧みれば13年間の月日、先生と奥様は、この私を主治医として信頼し続けて下さった。心筋硬塞のとき、東京女子医大に入院されたのは、私からお願いしてのことであった。
13年間の闘病生活で、このように一人の医師を信頼し続けるということは、容易にできることではない。しかも家賃の高い都心部を離れたら、と勧めた方もあったが、あえて私の近くに辛抱して下さったことを思うと、先生の奥様のお人柄、スカウトスピリットに謔驍烽フと、医師としては冥利に尽きることであって、私はいよいよ先生の寿命の一日も長からんことを祈りつつ、お守りしたのであった。
病床の横顔
「スカウティングとは、どのような境遇の中でも、たとえ病床にあっても、“ちかい・おきて”を守り、人格・健康・技能・奉仕の四本柱に精進しつつ、与えられた任務(スカウター、所帯主、患者・・・としての)を完うすることですよ、ねえー」と、私に語られたことがあったが、先生はその通りを実行された。
先生はかねて不平というものを余り言われなかった。B-P卿の教えのように、明るい面を見続けられ、軽妙なユーモアでご家族の看護にもよく応えられた。
亡くなられる8日前の誕生日、2月21日の朝、病床に来られた奥様に、突然「オギャー、オギャー」といわれた。奥様も思わず「ハッピーバースデー」と祝われた、と聞いたのは最後の日から2日前の往診の時であった。



