信仰奨励

宗教/人権指導のポイント

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「宗教」って何??? → スカウツオウン・サービスについて

 私(吉久義則・甲賀第1団)は、県連で「宗教担当理事」をしたり、昨年度まで日本連盟のリーダートレーナーとして訓練の機会に「明確な信仰を」などとエラそうに語っておりましたが、実のところは、「宗教って???、信仰って???」というのが、正直な心の内なのでございます。

 今の時代、インターネットで「信仰とは」と検索してみれば、たくさんのサイトが出てきます。それぞれにちゃんとした説明がなされていて、「嘘や!間違いや!」なんてものはないように思うのですが、でも、やっぱり、なんとなくモヤモヤとしたまま。

 もし、「信仰」とは、「素直に、ただひたすらに、神仏を信じて念じること」であるとすれば、例えば、年末ジャンボ宝くじを買い込んで、神棚に供えて、「どうか10億円当たりますように!」と、一生懸命に手を合わせて拝むこと、本人が真剣にそれをご利益と信じているならば、「信仰」なのでしょうか。

 宝くじで10億円は、「そりゃ、違うやろ!」と言われるなら、「コロナ禍で苦しい生活から抜け出すために、たとえ少額でも当たりますように」というのなら信仰なのかなあ。または「娘の病気が治りますように」という切実な願いなら、それこそが信仰なのでしょうか。

 私は現在、檀家であるお寺の役員に当たっています。また、近所の神社の神事などを運営する「大人(オトナ)」にも当たっています。今までなかなか交流の機会がなかった、地域の年配の方々といろいろ一緒に作業するのは、実はちょっと楽しいことでもあるのです。

 しかし、その作業の内容といったら、信仰に近づけるなんてこととは程遠いものばかり。けっして「嫌だ」とか「意味がない」とか思うものではないのですが、お供えを注文したり、ろうそくや線香を用意したり、あるいは榊(さかき)の枝を切りに行ったり。お寺やお宮さんの役をちょいとしたところで、なかなか信仰について理解することは難しいものです。

 私は今、スカウト運動に関わってきたおかげか、まあ「幸せ」だと感じてはいます。しかし、考えようによっては、今現在の状態に、不満や不安がないわけではありません。また高齢となっていくこれからの自分の人生については、それ以上の不安があることも事実です。最終的には「死」を迎えるということについて、得体の知れない大きな恐怖も、当然あります。

 人間というもの、やっぱり弱いもので、誰しもが程度や種類の差こそあれ、なんらかの不安を持っているのではないでしょうか。表面には出てこないこともあるかもしれませんが、順調な人生が少しつまずいたりした時には、一気に表面に出てきてしまうかもしれません。

 信仰とは、もしかしたら、本当に自分の心が安らぎ、生きていることの喜びが感じられたり、死への不安が薄らいだりすることなのかもしれないと思うときがあります。それを「救い」というのでしょうか。

 今の自分の置かれた状況を、素直に、あるいはなんとか受け入れて明日の人生へとつないでいける。現状を「不満」ではなく、「有り難い」というちょっとした喜びの気持ちになれる。そんな救いがあればと思います。

 そうなるには、どうしたらいいのでしょうか。人からあれこれ説教を受けたり、書物を研究したり、インターネットで情報を仕入れたりすることでは、おそらく到達できないでしょう。高名なお坊さんのありがたいお説教を聞けば、なんとかなるのでしょうか。

 いやいや。それはやはり、自分自身の「心」と素直に向き合って、そこから気づきが始まるのだという気がします。迷うかもしれないし、一生かかるかもしれない。それでも「救い」を求めてあがき続ける。それしか方法がないのではないでしょうか。

 もしかしたら、自分の心と向き合える、そして救いを自分で見つけられる。そこへの「導き」、あるいは「環境」を準備させていただくこと、それが「宗教」の本来の役割であるのかもしれません。

 自分の心と素直に向き合うというのは、なかなか難しいことだと思います。お寺、神社、教会などの環境が万能だとは思いませんが、そういう日常的でない環境に身を置いたり、お経や、祝詞や、賛美歌などがあり、また信仰に関わるいいお話を聞かせていただいたり。そういう導きがあれば、なんとかなるかもしれません。そうすれば、幸せはお金ではないんだと気付き、自分にとっての本当の幸せをみつけられるのかもしれません。

 少なくとも、お寺やお宮さんの役員は、そういう意味での、準備の仕事をさせていただいているのかもしれないなあと、この頃は一人で納得している次第です。

 スカウト活動には、「スカウツオウン・サービス」というものがあります。

 スカウツオウンを、何か難しい、何をしたらいいのかわからない、と感じておられる指導者の方や、あるいはスカウトたちがおられるかもしれません。

 スカウツオウンも、実はこの「導き」、「環境」だと考えてはどうでしょうか。

 スカウツオウンは一般的に、例えば指導者訓練のコースなどでは、具体的に参加者の皆さんと実際に体験するようにしています。いろいろと手順が決まっているようにも、あるいはまた、いろんなやり方があるようにも思えて、それがスカウツオウンをわかりにくくしているのかもしれません。

 しかし、スカウト一人ひとりを信仰へいざなう、自分の心と向き合えるようにうまく導くことがスカウツオウンであると考えるならば、何をすればいいかは自然とわかってくるのではないかと思います。

 まず、静かで落ち着いた雰囲気は、ほしいですね。となると、作業の合間とかではなく、朝あるいは夜の落ち着いた時間帯が候補となりますね。場所も、少し移動した森の中とか、たとえ同じ場所でも方向を変えるとか。もちろん、工夫次第で「いつでも、どこでも」できるということに変わりはありませんが。

 次に、急に自分の心と向き合えと言われても、なかなかすぐには、できないですよね。そんな時にはやはり、静かな「歌」を使うのもいい方法なのです。みんなで静かな歌を、心を込めて歌うことにより、落ち着いた気持ちになります。

 大人でも、「自分の心と向き合え」と言われても、やはり戸惑うものだと思います。ましてや年端もいかないスカウトなら余計に戸惑うでしょう。

 でも実際には何でもいいのです。今日の自分の行動を振り返ってみてもいいでしょう。今の気持ちを確かめてみても、あるいは何も考えずに黙って目をつむっているのもアリかもしれません。難しい理屈を考える必要はありません。

 それをわかってもらえるように、些細なエピソード、例えば隊長が、朝に森の小道で見つけた小さな花のお話、それを見て隊長がどう感じたかの心のお話を、優しくしてあげればいいのだと思います。またそのテーマが「感謝」などであれば、スカウトにも伝わりやすいのではないかと思います。

 そして、それぞれ個人による「黙想」、あるいは「祈り」などの時間が指示されます。ここが本当のスカウツ「オウン」サービスです。それまでの、時間、場所、歌、お話、すべてが「いざない」だと考えればいいのです。

 ここからは本人、一人ひとりの個人の世界となります。スカウトにはまだまだ難しいことなのかもしれません。でも、たとえ小学6年生の少年であっても、彼は「ちかいをたてた」スカウトなのです。周りを気にしながら、恐る恐る目をつむっている、それでもいいのです。彼にとって今の段階では、自分の心と向き合うための厳粛な「サービス=礼拝に参加している」、そのことが重要なのです。

 スカウツオウンも、他のスカウティングのプログラムと、手法としては何ら異なるものではないと思います。指導者は、常に、スカウトを成長のための自発活動へと「いざなう」べき、支援者なのです。お説教をする必要もありません。うまく歌を聴かせる必要もありません。

 スカウトの「心」を信じて、彼らが成長できる「環境」を提供するよう、これからも共に頑張りましょう。